おやぢめし

「めし」から学び、「めし」から暮らしを切り拓け!

善く生きるために飯を喰う

2023年も、あと1週間を残すのみ。

世間が何故か「アレは『一段落』したと思うことにしよう、そうしよう」という雰囲気に覆われてしまった。しかし、エッセンシャルワーカーのおっさん、医療従事者であるその妻の日常は一段落どころか、むしろヤヤコシイ日常を送るはめになっている。

さあ、この状況を管理人としてどう向き合い、どう折り合っていこうか?

 

ヤヤコシさを自覚したのは、今年のゴールデンウィーク明けだったと記憶している。
コロナ禍で長らく行動が制限されていた人々が、恐る恐る、しかし一斉に動き出した頃だった。
通勤で通る大阪駅界隈を歩いているとき、闊歩する人々の服装と髪型を見て感じた。

「なんじゃこりゃ?」

しばらく振りに大阪界隈を歩く人々のソレらが、自由奔放だったのに目が留まった。
流行の先端を走るというより、3年間枝の剪定をしなかった植木みたいな野性の自由さを感じる。
しかも、彼ら彼女らの多くの視線は目前のスマホにあり、耳にはワイヤレスイヤホンがセットされている。

それが彼らの自由であり、自分らしさなのか?

自分の存在が社会の中に居ることから逃れられるはずがないのに、自由や「らしさ」を外界と仕切ることでしか得れないのは大きなリスクだ。そのリスクよりスマホの画面やワイヤレスイヤホンの中の世界にいるメリットの方が大きいのだろうか?

マジか?
もしかして気づいていないのか?
もう考えるのを止めてしまったのだろうか?

何とそのうち、オッサンおばはんも右へ倣え~ってなっていった。
通勤で使うJR新快速の車内を見渡せば、8割9割の人が目と耳に「壁」を作って過ごしている。

大丈夫か?アナタ方。

そんな自由とか自分らしさってのは、世間が平和であることが大前提で獲得できるものだ。
この3年4年の間に、世間の平和が当たり前じゃないんだっていうツライ現実を突きつけられているのに、何とも感じないのか?自分ごととは捉えられないのか?したくないのか?知らないのか?どうでもよいのか?

謎が謎を呼ぶ。
管理人の視座では、こういう状況は非常に危うい状況と捉える。
いったんバランスが崩れてしまうと、対応が出来ない事柄が多すぎて想定外の速さで瓦解してしまう可能性が高いと捉える。

 

文句を言っても仕方がない。
どうせ世間がヘンテコになっていったら、しわ寄せはこちら側にやってくる。
誰が何と言おうが、そんな時に打つ二の手三の手を手に入れる知恵と寛容と勇気と体力を求めて暮らしていくだけだ。

そのためには、まずやらなければいけないことがある。やり続けなければならないことがある。

それは、飯を喰うことだ。

何をするにも、ヒトの身体には飯が必要だ。
喰った飯を消化する身体の維持が必要だ。
今日やったから、明日やらなくてよいというわけにはゆかない。

我々は、善く生きるために飯を喰わなければならない。

1人でも多くの人が、穏やかな年末年始を過ごせますように。