途中で休眠状態になった時期もありましたけど、このブログを書き始めてから10年が経ちます。
最初はシングルファザーの子育てにおいて、自分が一番大切にしていたテーマだった「飯(めし)」のことを記録するのが目的でした。
仕事から帰って、子供たちと共に過ごせる限られた「飯(めし)」時を如何に愉しむか、離れているときでも「飯(めし)」で何か繋がりを感じることが出来やしないか?と作り続けた「弁当」などの『コミュニケーションとしての「飯(めし)」』、あと自分が健康であることが我が家の成り立つ絶対条件だった『健康を維持するための「飯(めし)」』の記録です。
正直に言って、愉しさよりもしんどさの方が何倍何十倍も勝っていました。少ない稼ぎから色々やりくりするのもそうでしたけど、何より独りでやらなきゃいけないのが辛かったです。自業自得なんですけどね。
なので本音の目的は「ツライ自分を見てちょーだい!」ってことだったと思います。
しょうもないバツイチオッサンのダサい承認欲求の塊ってわけです。
そんなブログ読んでも、誰も面白ないですよね、いやマジで。
そんなダサいオッサンブログも、子供たちが大人になって巣立ちを迎えだしたあたりから変化が起こり始めました。
学校卒業して就職したら、子供たちの弁当作る必要がなくなった。
やがて、家族みんな揃って飯を食べる時間が徐々に減っていった。
子供たちが巣立っていったら、飯を作る必要が無くなってしまう。
やがて、オッサンは「自分の飯(めし)」だけを作ればよい生活になっていくでしょう。
自分の食べたいものを食べたいときに作ればよいのですから、これは愉しいですよ。
しかし、愉しいが慣れてしまうと当たり前になってしまい、暮らしの所作に丸め込まれたら、「飯(めし)」に対する興味が薄れてしまうのではないでしょうか?
しかし、神さま仏さまは色々と差し伸べてくださいます。
新しいパートナーとの出会いでした。
パートナーとは趣味趣向のたぐいは極めて似ているのですけど、得意不得意のたぐいは相互補完の状態になっています。私が掃除とか洗濯が苦手なのに対して彼女は得意、料理が得意なのに対して彼女は無頓着といった具合です。
オッサンの暮らしに「飯(めし)」が戻ってきました。
今、私にとっての「飯(めし)」は、暮らしを愉しむ「飯(めし)」と身体を保つ「飯(めし)」がテーマです。
以前と違うのは、自身の中が「老い」に覆われ始めたことと向き合っていかなければならないことです。
そのままヤンワリと受け入れつつ日々を愉しんでいければそれで良いのでしょう。
しかし、コロナ禍やウクライナ侵攻問題などが発端で自身の中に起こった「疑問」と向き合い、どうすれば良いのかを考えて行動に移すには、老いたなりに気力体力を振り絞って頑張らなきゃいけない必要があるなとも感じるのです。
簡単に答えが出る問題ではありません。だからこそ時間が必要です。問題と向き合うための気力と体力は、自分の食べたモノと吸った空気からしか生み出すことが出来ません。
人生の暮れ時に至って、世界も住み暮らす国も街も重たい状況になってきましたけど、だからこそ浮足立たず冷静さと寛容さを忘れず、「飯(めし)」と向き合って日々を過ごしてゆかねばならないなと確信しています。
というわけで、Instagramを始めました。
よく生きるために、胃袋の声に耳をすまし、腸の活動を世に広めます。
https://www.instagram.com/go_oyajimeshi/