おやぢめし

「めし」から学び、「めし」から暮らしを切り拓け!

外飯の機会が減ることについて、おやぢが思うこと

最近、ふと「皿うどん」が食べたくなって、その旨を妻に話してみた。

しかし、妻は小麦製品を摂取するとお腹の具合が悪くなることがあるため、その旨はスルーされることが多い。

皿うどん」といえば、関西あたりでは「餃子の王将」。いわゆる「バリ」。町中華で食ったらそれぞれ旨いに違いないけど、いつでもどこでも気軽にとなれば、「バリ」が1馬身差で先着する。先月に三宮から須磨までランニングした際、須磨の駅近くにある餃子の王将へ行った時に頼めばよかった。が、その時は走り終えた直後だったため、気分がビールand餃子・唐揚げになっていた。そのため、皿うどんまでたどり着くことが出来なかったのだ。食が細くなっている。歳をとったものだ。皿うどんが食べたいという気持ちは、おそらくこの時に湧いた未達成感が起因していると捉えている。

気持ちと腹が満たされて会計へ向かうと、請求された金額が、長い時間をかけて沁みついている餃子の王将の値段感覚に比べて「エッ」と思うほどに高かった。いや、高かったといってもしれている。混乱が収まらないこの時代、仕方あるまい、これからも頑張って続けてちょうだいねと納得して支払いを済ませた。

こんな感じのやり取りが、別の時、別の場所で繰り返されるうちに、不思議なもので外食の機会が大幅に減り始めている。

節約志向が高まってきたのかと問われれば、それはそうだと答える。しかし、おっさんにとって、二の次三の次の理由でしかない。餃子の王将では納得して支払いをした。そりゃ、店に入って飯食ったのだから、納得したしないに関係なく代金を支払うのは当たり前である。

ただ、支払う場所によっては、怒りとまではゆかないまでも、いきどおりを抱いて財布を開けるところがある。少なくない。

 

その、いきどおりとは何なんだろう?

 

それは「こき使われ感」とでも表現しようか。

店に入って着席しようとすると「座る前に食券を買え」と言われる。別のところでは目の前にいる店員から「タブレットで注文して」と言われる。あなたに今、一言注文を告げたら済む所作にも関わらず、だ。

 

さて、食券機にせよタブレットにせよ、頼みたいメニューがボタン1発で画面に出てくることは、まぁ、皆無だ。カタカナでは何て言うんだ?IT屋さん、この使い勝手の不自由さを。字ぃもちっちゃいから、年寄りにひとっつも優しくない。SDGS? ジェンダーレス? 多様性の尊重? 何でもエエけど停電したらどないすんのコレ?

いよいよ操作が分からない機械に出くわすこともある。なので店員さんを呼んで質問すれば、「おっさんマジでウザいなぁ」と顔に太字で書いてある人がやってくる。たまに日本語が分からんから会話にすらならならない人がやって来る。

そんなに食べたいものでもない、とは言え特別嫌いなものでもない、庶民にとって限られた予算で選べる普段通りの昼飯にありつくまで、何故こんなに手間取るのだろう?値上がりしているにも関わらず、だ。

 

結局、皿うどんを食べたい気持ちを満たすために、地元スーパーで豚肉と味のマルタイの皿うどんを買って、冷蔵庫にストックしてあるJAの直売店で購入した地元野菜をぶった斬ってダァ〜〜っと作って食べた。

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これは普段の幸せだ。

外で食うより安いとか言う話では1ミリもない。

小学校の頃からお世話になっている味のマルタイ製品が少々値上げしようとも、オッサンは喜んで購入する。事業を継続してもらいたいからだ。お野菜の形が多少整っていなくても全然構わない。支払った代金で地元の農家方が少しでも潤いの足しになったなら、それはこちらにとっても喜びだ。いつもありがとう。

 

外で食う飯もそうでありたい。

客とメニューの間にある「触れ合い」の心地よさが、ダッサい機械に割り込みされて分断されて無くなってしまうことを、庶民の辞書には「野暮」と書かれてある。それをイノベーションとかIT化デジタル化と言う方がいるのであれば、その方には一度病院に行って精密検査を受けることを真剣にお勧めする。