おやぢめし

「めし」から学び、「めし」から暮らしを切り拓け!

高級アスパラガスを喰って浮かんだ新しい課題

高級アスパラを手に入れて思ったこと~松岡マサヒロの飯ブログ「おやぢめし」

今日の話はタイトル通り。高級なアスパラガスを喰って疑問が浮かんだけど浮かんだだけで解決の糸口が全くわからないという中途半端にも度が過ぎる内容。この日この時こう思ったことを記録する健忘録です。なので、あまり読むのを勧めません。

 

おやぢめしを愉しむスタンスは、おそらく「食べるもの(作るもの)に関して “受け身”でいること」だと思っている。食材を買いに行ったときに見つけた特売品や旬のモノ、たまたま陳列されているのを見たことで急に食べたくなったモノなどなど、小さな偶然が重なることで、「おやぢめし」の愉しみが深まり広がると思っている。

 

ある日の出会いはパートナーからの声掛けから始まった。

 

「冷蔵庫にあるアスパラを食べといて~。」

 

その前日に彼女がアスパラガスのベーコン巻きを作ってくれた。根元部分が15ミリはあろうかという太さながらメチャメチャやわらかくで風味が濃いアスパラガスで実に美味かった。

でも「食べといて~。」ってどういうこと?

冷蔵庫の扉を開けてみると半透明のポリ袋越しにアスパラガスらしきモノが見えた。しかもソコソコの量だ。

「昨日のアスパラ、まだこんなに残ってるの?」

「そうやねん。傷んでしまうから、早よ食べなあかんねん。」

 

「そうなのね・・・」

 

というわけで、この美味しいアスパラガスを使って何か晩飯を作ることにした。
アスパラガスなんて普段積極的に食べようとしたことがないので、サッとメニューが浮かばないのだけど・・・

 

作ったのは2品。
1つは「グラタン」。思索の流れはこうだ。

アスパラガスといえば北海道、北海道といえばクリームシチュー、クリームシチューといえばそんなに食べない、そんなに食べないなら何食べよ?、何食べよといえばグラタンやろ、そもそもアスパラガスのたっぷり入ったグラタンなんぞ食べたとき無いぞ、よっしゃそうしよう、と。

市販のグラタンの素(マカロニも別茹でせずに出来ますよ~ってやつ)を途中まで書いてあるレシピ通りに作って別茹でしたアスパラをぜいたくに放り込み、チーズをババがけしてオーブントースターで焼いただけの品。

熱々を口にした直後にアスパラガスの味と香りがボハ~っと広がる絶品となる。

 

もう1つは冒頭の画像にある品。アスパラのエビ卵炒めだ。
グラタンでまったりとなった口には、少々ソリッドな味でバランスを取ろうかと。

 

ほならエビやな。

 

あらかじめ卵を炒っておいて別の皿に取っておく。

ブラックタイガーの背ワタを取って塩振って揉んでから酒に浸しておく。

アスパラは下茹で(とはいっても高級なので湯通し程度)して食べたい大きさに切っておく。

 

で、オリーブオイルを敷いたフライパンを中火にかけ、エビから炒めて焼き色がついたところでアスパラガスを入れて強火でササっと炒め塩やコショウで味をととのえる。
おろし際に炒っておいた卵をからめて出来上がり。

間違いない旨さではあったのだけど、グラタンおかわりして腹がパンパカパンになってしまい、味わい尽くすところまでいかなかった。反省。

 

とにかく今までのイメージをワープして味覚の中枢に衝撃を与えたこのアスパラガス。パートナーと一緒に食べながら呑みながら、彼女にこのアスパラガスを手に入れたいきさつについて尋ねてみたところ・・・

彼女の職場の誰かがリピートで購入するので職場内で一緒に買う人を募っていたのに、ひとつ乗ったらしい。彼女が頼んだのは1キロ、合計10キロくらい購入したらしい。払った金額は2千いくらだかとのこと。美味さからすれば安い買い物ではないか。

しかし、いくら美味いからといって毎日食べる食材でもないし、また食べたくなったら同じ機会がやってくるのを待つしかないのか? 待つことは受け身であることだから特段問題はないけど、自分が欲しい!と思ったときにはどうやって手に入れたらよいのだろう? 市場の八百屋に行っても売っているのを見たことがない。

 

試しにネットで検索してみると、某大手通販モールでドバーっと出てくる。例えばこんな感じ。

 

ただし、額面通りに美味いのか(おそらく美味いのだろうけど)、もっと高額なやつとどう違うのか?も分からない。神戸市商店街市場応援隊の隊員としては、イケてる八百屋の大将に「野菜のキュレーター」として尋ねて色々知識を授かったうえで大将に注文して取り寄せたいと思う。

それがオラが街の八百屋の存在意義だと信じているから。

 

でも、そんな八百屋は街から消えつつある。
おそらく街が、そんなことを必要としていないからだ。
ネットで買えば確かに便利、それを否定はしない。
しかし、ネットで買えなくなったときの入手手段を、街のみんなは持っているのだろうか?
スーパーで品切れしている食材の入手手段を、街のみんなは持っているのだろうか?

 

便利に慣れて、便利が当たり前になった瞬間から、ヒトは便利に首根っこをつかまれて自由が取れなくなってしまう。
便利に首根っこを掴まれたヒトが増えた街は愉しくない。

 

どうしたらよいのだろう?
何から始めようか?